07.07.03更新
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アラブ 〜アラビア半島の民族文化
7世紀にアラビア半島に起こったイスラムは、中東のみならず中央アジア、北アフリカからイベリア半島に至る広大な地域を支配し、世界三大征服事業と称されるほどの大帝国を築いた。 アラビア語も当初は、一地域言語に過ぎなかったが、現在では国連の公用語に採用され、22カ国で常用語として使われている。
一般に「アラブ」と呼ばれる名称も、本来はアラビア半島の遊牧民(バドゥ)を意味する言葉であったが、時代と共に多種多様な民族が入り混じり、何が「アラブ」であるかを正確に把握することは難しい。あえて定義するなら「アラブ」は人種や民族ではなく、「アラビア語を母国語とし、イスラム文化に誇りを持つものがアラブである。」と言える。
ウンマ(ummah)イスラム共同体
イスラム共同体は、アラビア語でウンマ(ummah)と呼ばれ、一つの共同体の同胞として責任と義務を果たした上で、共同体全体を擁護する権利と説明される。個人主義や自由主義を最優先する欧米型社会に対して、イスラムは全体の発展と権利を社会システムの根幹としている。またウンマ(ummah)は個人の責務を重要課題とするが、イスラム信仰自体は、己と神との直接的な契約(タウヒード:唯一神性)に基づく関係であるので、個人の自由や権利を束縛することはない。それは「共同体の一部」を意味するものではなく、個人と共同体とが調和されるという考え方である。
※イスラムの理念/イスラミック・センター
「イスラムにおいては、個人の生活の目的は共同体の営みのそれ、すなわち神法を実施し、執行し、そして神の満足を得ることと同一である。個人の権利を保護し、その上で共同体に対する一定の義務を課す。こうして個人主義と集団主義の求めるものはよく調和し、個人はその潜在カを発展させる機会を十分に与えられ、その発展させた資質を共同体に奉仕するために使用することが可能となる。」
ムハンマドの時代には、マディーナ周辺地域に限られていたウンマ(イスラム共同体)は、やがて、あらゆる民族を包含する宗教的共同体として形成され、発展していった。ムハンマドの唱えた、タウヒード(神の唯一性)には、五つの慣行があり、次が挙げられる。
1.シャハーダ(証言):
「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり」を宣言する。
2.サラート(礼拝):
毎日の礼拝は、早朝(ファジュル)正午(ズフル)午後(アスル)日没(マグリブ)そして就寝前(イシャーウ)の日に五回、カアバ神殿(メッカ)の方角に向かって礼拝する。その方角を示す印を「キブラ」と呼び、キブラを示す壁の窪みは「ミフラーブ」と言う。
※ミフラーブ http://www.tokyocamii.org/japanese/index.html 東京ジャーミイ
モスクのキブラ壁(カアバの方向を示す礼拝堂内部正面の壁)に設置された窪み状の設備。ミフラーブはアラビア語で聖龕ともいう。モスクにはマスジド・ハラームを例外として必ずある。モスクはキブラに礼拝するためのものなので、あえていうならば、ミフラーブがあればそれでモスクなのである。語の由来はペルシア語と考えられる。ミフラーブは幾何学的な模様で豪華に飾られる事がしばしばある。また、ミフラーブの横にはよくミンバル(説教壇)がある。また、ミフラーブ自体は聖なるものではないとされるため、ムスリム自身はミフラーブの中で寝る事もある。ひとつのモスクに複数のミフラーブがあることもある。また、ミフラーブは、三日月と並んでイスラム教の象徴とされる為、モスクの絨毯デザインされたり、モスクの壁に彫られたりということがしばしばある。
Wiki/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%96%E3%83%A9 からの引用
3.ザカート(喜捨):
共同体に課せられた資産税。主たる目的は、貧困救済のための税で、救貧税と訳されることもある。
4.サウム(断食):
イスラム歴のラマダン月は、日没まで食事や飲みものを摂ることができない。
(※病人や旅人・妊婦、授乳中期の女性・老衰者は、免除される。)イスラム暦の一年は354日であるため、ラマダーンの始まりは、毎年違う。
5.ハッジ(巡礼):
一生に一度、イスラム暦の12月の8〜10日にかけて、メッカのカアバ神殿に参拝する。
以上の儀礼的な奉仕として、イスラムは、具体的な慣行、ジハード(聖戦)、シャリーア(イスラム法)の遵守を生活心情としている。ジハードは、イスラムを発展させる努力。イスラム法は、聖典『クルアーン』の定める法規を指し、豚肉・賭事・飲酒・高利の禁止や婚姻などの生活規範を含んでいる。
※The beautiful names of God(アッラーの美名) アブー・フライラは伝えている
預言者はいわれた。「アッラーには99の名前がある。それらを記憶する者は天国に入るであろう。まことに、アッラーは奇数者であられ、奇数を好まれる」
http://islamcenter.or.jp/J_new_homepage/99names_of_Allah.htm からの引用
06.3/24更新
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古代の社会〜インカ(タワンチン・スウユ)
インカ文明(タワンチン・スウユ)の多くは農耕民族であった。その生活形態は、前インカ時代から引き継がれ来たアイユウという社会システムである。アイユウとは、絶対的な権力者である皇帝を頂点としたピラミッドであると同時に、共通の祖先を持つ民族の集まりを指し、一定の生活領域を共有していた。土地やそこに生息する動物・植物、それらはすべてアイユウの共有の財産であり、誰もがその恩恵を受けることができた。インカはアイユウの土地を3つに分けて、それぞれを、皇帝・太陽神・人民に与えた。生産物は人民から定期的にミタ(租税)として集められ、必需物資も社会保障もすべてはそうした余剰生産物から各地域へ再分配された。彼らはマユカ(代表)を選挙し、アマンツアと呼ばれる長老会議(諮問機関)の役員を選ぶことができた。農作業は暦を使って規則正しく行われ、入植期は「雨の儀式」。そして夏至にはトウモロコシ酒を作り、太陽神のために盛大な祭礼が行われた。
古代の太鼓 DMESTQDMDMESTQ

ハンドフレームドラムの最大の魅力は、なんと言ってもステップ(踊り)が踏めることです。古代バビロニアの神殿祭儀では、神官(巫女)が踊りながら太鼓を叩いたと云われています。またエルサレム神殿には、何百年にも渡って神エルと女神アナテが祀られていました。アナテはいろいろな名を持ち「アナト・アシュラ・マリ・ミリアム」とも呼ばれます。
*旧約聖書の記述
エジプトから脱出したモーセとその民は、ファラオの率いるエジプト軍に追われ、海へと逃れた。モーセが手を差し伸べると突然、目の前の海が2つに割れ、乾いた陸に変わった。彼らはその中を進み、無事、渡り終えることができた。海は再び閉じ、水はエジプト全軍に襲いかかった。モーセとその民は、神を讃えて歌をうたい、祈りを捧げた。
出エジプト記16.20 …女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち 踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った 「主に向かって歌え 主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた」
アッシリア人を支配したネブカドネツァル(バビロニア王)の治世18年の頃に、現在の中東舞踊(ベリーダンス)の原型と思われる様子が描かれ、当時は神を讃える際に、祈りとして「歌と踊り」を捧げていたと考えられます。
ユディト記16.1 ユディトはテュルソスの枝を腕に抱え、そこにいる女たちに配った ユディトも女たちも、オリーブで冠を編んでかぶり 踊るすべての女たちを率いて人々の先頭を進み、ユディトは歌った 「タンバリン(枠太鼓)に合わせて神を讃え、シンバル(シストラム)に合わせて主に歌え 詩と賛美を主に捧げ、主をあがめて御名を呼び求めよ。」
∇~珈琲の起源
今から1500年も昔の話...「ある日、羊飼いのカルディーがアビシニアの高原で放牧していると…羊たちが赤い木の実を食べて興奮しているのを見た…自分も食したらたちまち元気になった…」 または、12世紀頃 アラビアの回教僧オマールがイエメン山中に追放さたとき、鳥がついばんでいた赤い実を食べたところ疲労が回復したという伝説がある。
「コーヒー」という言葉の由来に関しても2つの説がある。ひとつは、エチオピアのカファ地方の名前から訛ったという説…もう一つは、アラビア語で酒を意味する「カーファ」からとする説である。どちらにしても、エジプトに渡りコンスタンチノープルを経てシリアに入りトルコで「カーフェ」となりヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったと云われている。
1545年頃、アデンのイスラム法律学者であったシェーク・ゲマレディン・アブ・ムハンマド・ベンサイドは、アビシニア(現在のエチオピア)からアデンへ帰る途中、疲労から病に倒れた。ところが、アビシニアのコーヒーのおかげで回復し、さらに眠けを覚ます効果があることを知った。無事帰国すると彼は、回教僧たちが夜の礼拝や修行に励むことができるとしてコーヒーを飲むことを認可した。
こうしてコーヒーは1500年頃までにメッカやメディナまで広がり、メッカでもコーヒーを好むようになり、宗教的な目的に使用されたコーヒーも次第に大衆の飲み物となっていった…。